沈黙する砦と応答なき砂漠に人生を捧げる『タタール人の砂漠』

ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は、若き将校ジョヴァンニ・ドローゴの人生を通じて、意味を与えられない時間、報われることのない期待、そして出来事の訪れない日々を描き出す。人は何を信じて生きるのか、何を待ちながら老いてゆくのか。戦いのない戦場、敵の見えない監視、沈黙の風景のなかに、それでも生き抜くということの微かな尊厳が立ち上がる。この沈黙と停滞に満ちた物語をじっくり読み解いてみたい。

停滞する時間の風景

若き将校が配属された砦は、地図の隅にあるような忘れられた場所だった。時計が進んでいても、心の針は止まったままでいるような場所──北の辺境に建つ砦は、まさにそうした場所として描かれる。そこに立つ者の心は、街中に暮らす者の時間とは別の律動に晒される。日差しは斜めに砂漠を照らし、影は静かに長く伸び、誰かの足音が中庭にこだまする。そのすべてが繰り返され、次第に風景の一部となって溶けてゆく。

主人公ジョヴァンニ・ドローゴが最初にそこへ赴いたとき、彼は未来を信じていた。兵としての栄光、人生の昂り、それらが砦の果てに待っていると。けれども、砦の静けさはその期待に水を差す。兵士たちは皆、奇妙に落ち着いている。ここでは騒がしさも熱狂もなく、ただ粛々と命令が実行され、整然とした日常が連なってゆく。そのうちに、ドローゴの心の中に一つの疑念が生じる。何かを「待つ」こと、それ自体が目的になってしまうのではないかと。

物語の序盤で気づかされるのは、「風景」と「時間」が一体化しているかのような停滞感。砦という構造物は、時の流れを封じ込め、内部にいる者たちを、終わりのない待機状態に置く。季節が巡っても、戦火が上がらなくても、日々はただ規則的に過ぎてゆく。そこに潜むのは、人生の空転であり、それでもなお続いてゆく生の頑強さとでもいうべきものだ。

期待という名の病

「その日が来る」という予感に対する裏切りほど、人生を空虚に変えるものはない。砦に配属された兵士たちは、皆、心のどこかに「敵」が現れる日を夢見ている。タタール人が、あの砂漠の彼方から姿を見せる日が、自らの存在を正当化する唯一の瞬間だと信じている。その予感があるからこそ、彼らは砦にとどまり、同じ日々を反復することに意味を見出そうとする。

だが実際には、敵は現れない。あるいは、少なくともその姿は見えない。期待はやがて信仰へと変わり、その信仰は人を縛るようになる。ドローゴもまた、「ほんのしばらくの配属」として赴任したはずだった砦に、知らぬ間に根を張り、年齢を重ねてゆく。「やめる」ことは裏切りのように感じられ、「続ける」ことが誠実に思えてくる。その構造は、人生におけるあらゆる「先延ばし」に通じ、現代人の生き方の観念にもひどく通じるものがある。

ここでブッツァーティが描いているのは、行動ではなく「待機」そのもの。行動しないことで正当化される人生。それは決して怠惰というわけではないだろう。むしろ、過剰な忠誠と希望が人を動けなくしている。期待は毒であり、同時に生の支柱でもある。その二重性こそが、本作に深い陰影を与えている。

空白の倫理と尊厳

砦での生活は、ほとんど劇的な出来事を伴わない。ただ兵士たちが交代で見張りにつき、定時に食事をとり、あらかじめ定められた手続きを遂行してゆくのみ。その繰り返しの中に、倫理があるとすれば、それは「続けること」にある。

現代社会では、「何を成したか」がその人の価値を決める基準となっている。だがこの砦では、「何も起こらない中で、どう耐えたか」がその人の存在を定義する。ドローゴの人生も、目に見える「功績」を伴わない。けれどもそれは、無意味であることとイコールではない。むしろその「空白の時間」をどう生きるかが、倫理的な選択となるのではないか。

この静謐な視点は、現代の読者にとっても鋭い問いを投げかけてくる。「何も起こらなかった一日」を、どう記憶するか。「意味のなかった時間」を、どう尊重するか。そうした問いの積み重ねが、本作を単なる寓話で終わらせない。ドローゴが最後にたどり着くのは、敗北だろうか? それとも「何もなかった」人生なりの尊厳とでも呼ぶべきものなのか。

風景と人間──砂漠という鏡

砦の前に広がる砂漠。それは単なる舞台ではなく、この小説における主役であるかもしれない。無限に続くような砂の地平、淡く霞んだ空の色、風のうねり。そのすべてが、時間の流れを視覚化し、そして人間の精神状態を反映している。砂漠は常にそこにあるけれど、決して同じ姿ではない。朝にはぼんやりと白んだ光が差し、夕暮れには遠くの稜線が影を落とす。そして夜になると、その静寂が砦の内部にまで浸透してくる。

このような風景に囲まれると、人間の輪郭は曖昧になる。ドローゴの感情も、次第に風景の中に溶けてゆくかのようだ。希望も失望も、誇りも屈辱も、砂の粒のように風にさらわれてゆく。そうして残されるのは、ただそこに「いる」という事実のみ。存在とは、思考や感情の総体ではなく、「場に身を置き続けること」そのものとなる。

この砦の砂漠に自己を重ねることで、読者は初めて「風景が人間を形成する」という真実に気づかされる。風景は沈黙しているものの、その沈黙のなかにこそ、そこはかとない語りを見出すことになる。

英雄なき出来事の始まりに

物語の終盤、ついに砦に変化が訪れる。ある決定的な報が届き、兵士たちは歓喜と緊張に包まれる。けれどもそのとき、主人公ドローゴはすでに老いにより病に倒れている。彼は町へ移送され、人生最後の時を病室で迎えることになるだろう。皮肉にも、彼が夢見た出来事の始まりの瞬間に、彼はその場にいない。

この物語を通して、読者の中にはドローゴの顛末を訓示のように受け取り、若いうちから行動に移すべきと解釈する向きもあるだろうし、それもまた一つの読みだと思う。ただ、本作のラストからは、単なる諦念とも異なる不思議な平穏も読み取れる気がする。ドローゴの生は自身が期待していたものとは異なるにしても、別の意味を手にしたと考えることはできないだろうか。

最終的にドローゴが手にしたものは、静かで気高い救済であると解釈できるかもしれない。彼の眼差しはすでに遠くを見つめ、人生の全体を静かに抱擁している。読者に残るのは、生きることと出来事の有無で人生を測れるかという問いではないだろうか。

FEATURES

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