フィリップ・K・ディックの『火星のタイム・スリップ』は、火星植民地を舞台としたSF小説の体裁をとりながら、実のところ人間の存在そのものの根源的な問いかけを内包した思弁的作品として上梓されている。時間の歪み、精神の病理、記憶の不確実性といった一筋縄ではいかない要素を巧みに織り交ぜながら、ディックは現実とは何か、意識とは何かといった哲学的な問いを読者に突きつける──ジャンルとしてのSF小説の枠を遥かに超越し、二十世紀文学の到達点の一つとして位置づけられるべき傑作として。
火星という鏡に映し出された人間存在の虚無
火星という舞台設定の特徴は、特殊な異星の描写というよりも、むしろ地球上に暮らす人々の日常生活の延長をまずは提示してみせるところにある。貴重な水の配給をめぐっては気を揉み、隣人とのつきあいに矛盾を感じては疎外感を抱くといったふうに、火星に移住してきた人々の多くは、地球の暮らしと大差のない現実を生きている。
修理員である主人公ジャック・ボーレンは、そうした火星植民地の環境において自らの存在の不安定さと向き合うことになる。彼の職業とも関わる「修理」するという行為そのものが、この作品の核心的テーマを暗示してもいるだろう。壊れたものを直す、けれどもその「壊れた」状態こそが、実は人間存在の本質を知る手がかりなのではないか。
ジャックの精神的な不安定さは、彼個人の問題を超えて、現代人の置かれた実存的状況とも重なるだろう。彼が経験する時間の混乱、現実認識の揺らぎは、私たち読者も現実との関わりのなかで日常的に体験している強迫観念の極限的な形態といえるかもしれない。ディックは火星という非日常であるはずの空間にあえて生活や人間関係という日常を溶け込ませることで、その延長としての特殊空間における虚無感を浮き彫りにする。
マンフレッドの沈黙が告発するコミュニケーション空間の臨界
自閉症の少年マンフレッドは、この作品において最も重要な鍵を握る人物。マンフレッドの沈黙は単なる病的症状というのとは異なり、言語というコミュニケーション手段の限界を告発するかのような効果を発揮する。彼が抱える時間認識の方法は、どうやら他人のものとは異なるらしい。物語を通してその特異性に浸透すればするだけ、私たちの日常的な時間感覚がいかに脆弱で恣意的なものであるかが暴かれる。「ガブル、ガブル、ガビッシュ」、意味不明な言葉が反復されるとき、読者はマンフレッドの見ている一種異様な時空に引き摺り込まれ、その陰鬱としたヴィジョンを共有させられる。この不気味にして奇跡のような詩的操作こそが、ディック一流の文学的実践であることはいうまでもない。
マンフレッドの「予知能力」は、我々が無意識に前提としている時間の直線的な流れそのものに対する懐疑を生じさせる。過去、現在、未来という時間の区分が、結局のところ人間による限定的な認識の産物に過ぎず、より根源的な時間性においてはすべてが同時に存在しているのだとしたら? そんな絶望的な環境に身を置くことを強いられた少年の内なる心の育まれかたを、私たちは知る由もない。その読解可能性の行方は、生真面目な商売人として描かれるマンフレッドの父親、ノーバート・スタイナーの心情吐露に示されている。スタイナーの苦悩は現代を生きる多くの人々の感覚に限りなく近い。それだけに彼が苦しみの果てに選ぶことになる道も、丁寧に描写される過程にまぶされた些細なことの重なりにおいて、すでにして予告されていたのかもしれない。
純粋な時間認識を持つ少年の特殊能力を、利己的な目的のために利用しようとする者が現れるとき、そこには文明に対する倒錯の趣きが露呈するというのも当然のなりゆきか。マンフレッドの能力を個人的な利得へ結びつけようと目論む企ては、必然的に悲劇的な結末を招くだろう。それは個人的な不幸という以上に、真理を歪曲しようとする人間の傲慢さに対する存在論的な報復とでも呼ぶべきかたちをとる。未来を見る力は、私たちの常識的な現実認識に疑問を投げかけると同時に、その神聖さを冒涜する者たちへの厳しい審判をももたらすことになる。
アーニー・コットに潜む権力への執念と狂気
有能な修理員としてジャック・ボーレンを雇うことになる、水利労組支部長のアーニー・コットという人物の造形は、ディックの資本主義社会に対する鋭い洞察を如実に示していて興味深い。火星の生命線である水供給を独占的に支配するアーニーの姿は、現代社会における権力の集中とその腐敗を象徴している。ジャックの父親レオとのFDR山岳地帯の権利をめぐる心理的な駆け引きでは、なりふり構わぬ権力の行使によって、どうにか有利な立場に立とうとする姿が克明に描かれる。
一方で、ディックはアーニーを単純な悪人として描いているわけではないことに注視したい。権力者アーニー・コットもまた、国連からの締めつけに悩みながら、この疎外された世界で生きる方法を模索する一人の弱者としての側面を垣間見せる。外的な力によって建造が予定されている「超国家的な楽園」の計画は、アーニーの思考を徐々に蝕んでゆく。ブリークマンの知恵を利用し、どうにか「汚れた瘤」と呼ばれる神託の岩地で一発逆転のため奮闘するも、そこで幻視される世界は言語実験を伴う未曾有の戦慄が繰り広げられる場所となるだろう。
アーニーの行動原理である「成功」への渇望は、おそらく存在の不安に対する一つの防御機制として機能している。虚勢を張り続けるアーニーの姿の影に一種の脆さを見出す読者は少なくないだろう。彼の元妻アン・エスターヘイジーとのウィットに富んだ痴話喧嘩や、愛人ドリーンとのジャックも絡めた三角関係下での振る舞いなどを含め、いくつもその片鱗を確認できる。ディックの人物造形の巧みさは、このような複層的な人間理解にある。
ブリークマンを通して暗示される終末と再生の弁証法
火星の原住民とされるブリークマンという謎めいた存在は、作品世界における別次元の意識のあり方を静かに体現している。彼らは、通常の人間には理解できない高次の意識を有しているのか、言語的コミュニケーションに困難を抱えるマンフレッドが、ブリークマンとだけは心を許すようにコミュニケーションを交わしはじめる。この奇妙な絆は、既存の言語体系を超越した、より原始的で直感的な意識の交流を示唆している。
ブリークマンの存在はまた、植民地化を進める文明人による価値体系の崩壊を告知しながら、その彼岸にある新しい存在様式の可能性を暗示してもいる。彼らとなら行動をともにすることができるマンフレッドは、終末論的な存在であるだけでなく、再生の使者でもあり得るのではないか。この両義性こそが、ディックの世界観の核心部分を形成している。破壊と創造、絶望と希望は、ディックの作品世界においては表裏一体の関係にあることを改めて認識させられる。
文学的達成としての『火星のタイム・スリップ』
この作品の真の価値が、SF的な設定や奇抜なアイデアのみにあるわけでないことはもはや明白だろう。ディックが到達したのは、現代人の実存的状況を最も先鋭的に表現した文学的達成の領域といっても過言ではない。彼の描く現実の不確実性、アイデンティティの揺らぎ、時間認識の相対性は、二十世紀以降を生きる人間存在の本質として剥き出しの状態で我々の前に提示される。
よくいわれるように、ディックはSFという形式を借りながら、最も純粋な意味での文学的探求を行っている。上述したようなマクロな側面とともに、そこに息づく脇役たちのウェットな心の機微に象徴されるミクロの側面が、この作品において極まっている点も強調しておきたい。どうにかマンフレッドの心を開こうとピアノを弾く女教師、闇商売をしつつ束の間の情事に刹那的な悦びを見出そうとするオットー・ジット、嫉妬や野心と医師としての義務感の間で揺れるミルトン・グローブ、虚無的でアンニュイな火星での生活に倦む主婦としてのシルヴィアたち……一人ひとりが目の前のことに揺らぎ、苦悩する人々であり、その営みの数々にディックのシンパシーが垣間見える。
物語のラスト、次の段階へ進む者と残る者との思いも寄らない邂逅は、読者にとって忘れ難いシーンとなるだろう。そこに響く「事務的な」声が私たちの心を静かに揺さぶる。いまや日常への帰還は単純な回帰ではない。私たち読者は時間と空間、そして自分自身の意識に対する、畏敬の念にも似た新たな感覚が自らの胸に迫ってくるのを感じる。そのことが、真の傑作のみが与えてくれる最も貴重な読書体験であることを証明してくれている。



